「真実」について(2)

お久しぶりです、笹本道子です。
続きもののエッセイでしたのに、すっかり間を空けてしまいました。
言い訳をふたつ挙げれば、
私は、仕事やプライベートも含めて個々に頂くメールを
最優先に対応する主義の上に、十数年前の「真実について」の
私の作品の書類が残っていない事も手伝い、
ブログ更新が疎かになってしまいました。

さて、前回の「真実」について(1)では、
ブログという落ち着かないメディア上を意識するあまり、
サラッと読める簡略化しすぎた内容になってしまいましたから
改めて、もう少し掘り下げてみたいと思います。

大森荘蔵による「真実の百面相」という随筆の通り、
こうなければならないという固定化された真実は無いという事自体を
一つの答えとして断定することはとても難しいように思えます。
これを芸術分野で表現する事から、「芸術(表現)上の真実」に
テーマを絞り改めて、その答えを探ってみます。

そもそも(動機にあたる)真実自体の魅力とは何でしょうか。
実態が見えない存在ですが、『真実を追求する「行為」』で考えてみると…
なんの混じり気も濁りもない唯一無二を追求する行為は、
最も人間らしく、芸術文化に貢献出来る行為のように感じます。
なぜなら、その定義がみえた時、その先には、
あらゆる日常の混沌と細々とした事物や現象が、
人間の認識上の新しい見方として、理解し易い存在になると信じたからです。

…一時的な流行や短絡的な発想を生み出す事も追いかける事にも
なんの魅力も感じませんし、その様子は忙しく哀れにさえ思える…

どうせでしたら、1日でも永遠の存在…その核に触れたい、
それが「もっとも人間らしい個性であり、刺激的な美」だと感じ
それには、芸術の視点から探った「真実」の追求が不可欠です。
目に見えないエリア(心理的理論の要素)を大切に表現する芸術では、
もうこれ以上還元出来ないひとつの真実を述べられる絶好の場です。

当時のこのような精神を、気の合い始めた方に述べると…
「私も昔は考えていました」などとよくある
純粋な頃の青春の1頁だと勘違いされるか、
「まだ自分の表現方法や方向性に迷っているのでは?」などと
一括りにした「学生レベルの悩み」だと誤解されることもあります。

このような方々は、自身で感じ、考え、体験しているにも関わらず、
他人の行為をなぞっているだけで、
本当に体験している状態とはほど遠いでしょう。
付け加え例えると、
土の中に埋まっている黄金の上を何度行き来しても、
それを探そうとしない限り、永遠に見つける事が出来ない、とも言えます。

真に追求する表現者は、思考の深度に限りはなく、
偏見や観念を持ち合わせていないものです。

しかしこういった「卓上の理論」を、具現化した作品に還元出来ず、
いつまでも持ち続ける事はとても危険です。
なぜなら、その表現内容によって決定的に威力を発揮する時は限られており、
その判断を誤ると、他人に理解されないばかりか、
私自身の心身にとっても不健康です。

では、やっと前回の続き、答えを述べる時がきましたが、
しかし今回はここ迄にしましょう。
これからがやっと本題、まだまだ長文が続きますから、
今度こそ、近日続きを更新したいと思います。

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