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11月, 2007の投稿を表示しています

えほん

先日の旅行先で「えほんミュージアム清里」へ行きました。 今回は観光はしないつもりでしたが、 念のためホテル付近のイベントを調べていましたら、 一枚の絵が目に止まりました。 この絵は、マージェリィ・W・ビアンコ作「ビロードのうさぎ」の挿絵 (表紙)でした。本の内容も知らず、ただこの絵をどこかのサイトで 見かけた最初の印象では、画面中心にいるうさぎの背後には、 説明的な要素があり深い物語性は感じたものの、 1枚の作品としては完結出来ず、伝えたい何かがおぼろげでした。 ただ、全体的に黒を下地にした描き方がしっかり構築され、 画面四隅まで責任を持った緊張感あるデッサン力は 見ていて最低限の安心と信頼がよせられます。 描いた方は、酒井駒子さん。経歴をみると、 やはり…、油絵科を専攻されていました。 私も画家を目指し油絵を学んでいましたので、 実際に原画を拝見し、擦れた部分や厚塗りの箇所などの ディティールを表現した筆さばきを見た時は、 久しぶりに絵筆を執りたくなりました。 こちらのミュージアムでは、入館料に喫茶代が含まれており、 最後にハーブを頂きながら、酒井さんが描かれた多くの絵本を 読ませて頂きました。 中でも最も夢があり創造性を強く感じたのは、「ビロードのうさぎ」でした。 私は、無事に娘が生まれましたら、いつかこの本を読んであげたいと思います。 「えほんミュージアム清里」公式サイト http://www.ehonmuseum-kiyosato.co.jp/

ホテル・リゾナーレ

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10月末に山梨県・小淵沢にありますリゾナーレに 2泊3日の休息をしてきました。 現在私は妊娠9ヶ月で、小旅行も控えた方が良い状態でしたが、 今迄仕事上の時間調整が難しく、念願叶って宿泊出来たホテルでした。 リゾナーレとは、イタリア語で響き合う、共鳴しあうという意味。 八ヶ岳の森の中に溶け込む一つの町として、 建築家マリオ・ベリーニが築いた理想郷です。 まずホテルへ着き、客室の窓を開ければ、 様々な緑を始め、赤や黄色が混じり合い、 その後景にはくっきりと富士山がそびえだっていました。 様々な色彩から、遠く眺めても自然というひと括りの認識ではなく 個々の生命としての存在がみえてきます。 ホテル内には、都心では考えられない程の大きなプールがあります。 波のあるプール、沢山のボールが浮かんだ子供用プール、 ジャクジー付き温泉(露天)プールなど幾つか分けられ、 夜は、水面の自然な青色が空間に広がり、高い天井の面には、 水中にあるライトからランダムな光模様が反射して踊っていました。 ホテル別館には露天風呂もあります。 白を基調にした洗い場には、深鮮な赤、青、黄色のシャンプー、リンス、 ボディソープ入りのボトルカラーが印象的です。 丸い形状の屋外ジャグジーは、背の高い真っすぐな木々に囲まれており、 その先端をたどると、無数の星と月が見え隠れしました。 ショップの中には、アート、ファッション、ライフスタイルなどの新刊を 収蔵したカフェ&ブックストアがあり、店内にある座り心地の良いソファで、 じっくり読書に耽る事も出来ます。 高級なホテルに飽きた方にお勧めしたいホテル <リゾナーレ公式サイト> http://www.risonare.com/ 客室からの1フレーム タイトルは、「夕方の薄いピンク色に包まれた富士山」。 石畳の回廊ピーマン通り 左右にはギャラリー&セレクトショップが並ぶ。 まだ誰もいない早朝の室内プール これからえほんミュージアム清里に向う、タクシー待ちの私

「真実」について(3)

続きもののエッセイです。 初めてお読み頂く方は(1)から読んで下されば幸いです。 では、「芸術(表現)上の真実」の答えは、以下の通りになります。 ------------------------------------------------------------------------- タイトル:「Portrait」 発表時期:1994年12月 素材:鏡 絵画用額縁(ゴールド)10F号  設定:平面作品 天井からの吊り下げ ------------------------------------------------------------------------- コンセプト---- 絶対的な真実はない、という事が真実です。 それぞれの持っている真実はみな違うばかりか、 その人自身のもっている真実さえも、流れと共にかわってくるものです。 ある芸術作品を観た時、観る側それぞれが違った感想が出てきますが、 それらはみな真実であって、自然な状態です。 言い換えると、この世の中には主観のみがあり、 客観は存在してはいないという事です。 現実は主観が入り交じり、交差しあった混沌とした状態であり、 それがもともとの自然な状態だと感じます。 どんなに知識を詰め込んでも、伝説的偉業を成し遂げ、 また発見、表現してもそれはひとつの想念という事になるでしょう。 これはどのような学問の分野に於いても、 最終的な決断はその人の感覚という事になります。 当然のことながら、私がこちらで断定して述べている事も、 私の(過去に感じた)ひとつの主観でしかありません。 これを読む方は、自由に解釈し、批判し、受け取って頂いていいのです。 常にそれらの変化に、出来るだけ忠実に再現出来る素材が鏡だったのです。 残念ながら作品に使用した鏡を含め、現在の一般的に使用されている鏡は 左右反対に映ってしまいますので、 完璧にコンセプトを反映した作品にはなれませんでした。 ただ、その作品(鏡)は、観る相手、展示される場所、時間に対して 出来るだけ対応しようとするもので、 これ以上の無い真実に近づこうとした結果です。 結果 ---- 発表した設定は、10人程度の彫刻家や画家、陶芸家など 若い芸術家からなるグループ展。 知人の誘いをきっかけに、既にコンセプトがまとまっていた私は、 業者に発注をし、一度も私の手

「真実」について(2)

お久しぶりです、笹本道子です。 続きもののエッセイでしたのに、すっかり間を空けてしまいました。 言い訳をふたつ挙げれば、 私は、仕事やプライベートも含めて個々に頂くメールを 最優先に対応する主義の上に、十数年前の「真実について」の 私の作品の書類が残っていない事も手伝い、 ブログ更新が疎かになってしまいました。 さて、前回の「真実」について(1)では、 ブログという落ち着かないメディア上を意識するあまり、 サラッと読める簡略化しすぎた内容になってしまいましたから 改めて、もう少し掘り下げてみたいと思います。 大森荘蔵による「真実の百面相」という随筆の通り、 こうなければならないという固定化された真実は無いという事自体を 一つの答えとして断定することはとても難しいように思えます。 これを芸術分野で表現する事から、「芸術(表現)上の真実」に テーマを絞り改めて、その答えを探ってみます。 そもそも(動機にあたる)真実自体の魅力とは何でしょうか。 実態が見えない存在ですが、『真実を追求する「行為」』で考えてみると… なんの混じり気も濁りもない唯一無二を追求する行為は、 最も人間らしく、芸術文化に貢献出来る行為のように感じます。 なぜなら、その定義がみえた時、その先には、 あらゆる日常の混沌と細々とした事物や現象が、 人間の認識上の新しい見方として、理解し易い存在になると信じたからです。 …一時的な流行や短絡的な発想を生み出す事も追いかける事にも なんの魅力も感じませんし、その様子は忙しく哀れにさえ思える… どうせでしたら、1日でも永遠の存在…その核に触れたい、 それが「もっとも人間らしい個性であり、刺激的な美」だと感じ それには、芸術の視点から探った「真実」の追求が不可欠です。 目に見えないエリア(心理的理論の要素)を大切に表現する芸術では、 もうこれ以上還元出来ないひとつの真実を述べられる絶好の場です。 当時のこのような精神を、気の合い始めた方に述べると… 「私も昔は考えていました」などとよくある 純粋な頃の青春の1頁だと勘違いされるか、 「まだ自分の表現方法や方向性に迷っているのでは?」などと 一括りにした「学生レベルの悩み」だと誤解されることもあります。 このような方々は、自身で感じ、考え、体験しているにも関わらず、 他人の行為をなぞっているだけで、 本当に体験してい