「真実」について(3)
続きもののエッセイです。
初めてお読み頂く方は(1)から読んで下されば幸いです。
では、「芸術(表現)上の真実」の答えは、以下の通りになります。
-------------------------------------------------------------------------
タイトル:「Portrait」
発表時期:1994年12月
素材:鏡 絵画用額縁(ゴールド)10F号
設定:平面作品 天井からの吊り下げ
-------------------------------------------------------------------------
初めてお読み頂く方は(1)から読んで下されば幸いです。
では、「芸術(表現)上の真実」の答えは、以下の通りになります。
-------------------------------------------------------------------------
タイトル:「Portrait」
発表時期:1994年12月
素材:鏡 絵画用額縁(ゴールド)10F号
設定:平面作品 天井からの吊り下げ
-------------------------------------------------------------------------
コンセプト----
絶対的な真実はない、という事が真実です。
それぞれの持っている真実はみな違うばかりか、
その人自身のもっている真実さえも、流れと共にかわってくるものです。
ある芸術作品を観た時、観る側それぞれが違った感想が出てきますが、
それらはみな真実であって、自然な状態です。
言い換えると、この世の中には主観のみがあり、
客観は存在してはいないという事です。
現実は主観が入り交じり、交差しあった混沌とした状態であり、
それがもともとの自然な状態だと感じます。
どんなに知識を詰め込んでも、伝説的偉業を成し遂げ、
また発見、表現してもそれはひとつの想念という事になるでしょう。
これはどのような学問の分野に於いても、
最終的な決断はその人の感覚という事になります。
当然のことながら、私がこちらで断定して述べている事も、
私の(過去に感じた)ひとつの主観でしかありません。
これを読む方は、自由に解釈し、批判し、受け取って頂いていいのです。
常にそれらの変化に、出来るだけ忠実に再現出来る素材が鏡だったのです。
残念ながら作品に使用した鏡を含め、現在の一般的に使用されている鏡は
左右反対に映ってしまいますので、
完璧にコンセプトを反映した作品にはなれませんでした。
ただ、その作品(鏡)は、観る相手、展示される場所、時間に対して
出来るだけ対応しようとするもので、
これ以上の無い真実に近づこうとした結果です。
結果----
発表した設定は、10人程度の彫刻家や画家、陶芸家など
若い芸術家からなるグループ展。
知人の誘いをきっかけに、既にコンセプトがまとまっていた私は、
業者に発注をし、一度も私の手を汚す事無く、数日後には作品が完成しました。
展示会中のある日、遠くから、私の作品と入場者を暫く眺めましたら
直ぐに頭の中で反省会が始まりました。
私の作品の前には、誰一人、立ち止まり観て下さる方がいなかったのです。
理由は幾つか挙げられ、簡単に要約すると、
人は真実を知ろうとしないという事
作品に造形的な魅力が少々欠けていた事、でしょうか。
20世紀の古い芸術になりますが、
マルセル・ジュシャンの「泉」(どこにでもある小便器にタイトルを付け
サインを記し、1917年、芸術作品として発表した)のように、
どこにでもある素材を使用した私の「鏡」の中にも
サインを入れて、少しでも作者の温もりを入れても良かったでしょうし、
更に、多少、制作に汗をかいても良かった。
しかし、作品コンセプトの「芸術(表現)上の真実」の答えは、
矛盾してはいないと感じますから、
真実というどこにでも内在している性格を、
造形的な楽しさでもう少しオブラートで包み、
まずは観る側に興味を抱かせることも必要だったかもしれません。
その後も、芸術上の表現方法や、人間の未来の価値観に対しての
未発表作品含めて2作品制作しましたが、最後の作品で
現在のワックス素材に巡り会いました。
また、いつかこの未発表作品の事を綴りたいと思います。
絶対的な真実はない、という事が真実です。
それぞれの持っている真実はみな違うばかりか、
その人自身のもっている真実さえも、流れと共にかわってくるものです。
ある芸術作品を観た時、観る側それぞれが違った感想が出てきますが、
それらはみな真実であって、自然な状態です。
言い換えると、この世の中には主観のみがあり、
客観は存在してはいないという事です。
現実は主観が入り交じり、交差しあった混沌とした状態であり、
それがもともとの自然な状態だと感じます。
どんなに知識を詰め込んでも、伝説的偉業を成し遂げ、
また発見、表現してもそれはひとつの想念という事になるでしょう。
これはどのような学問の分野に於いても、
最終的な決断はその人の感覚という事になります。
当然のことながら、私がこちらで断定して述べている事も、
私の(過去に感じた)ひとつの主観でしかありません。
これを読む方は、自由に解釈し、批判し、受け取って頂いていいのです。
常にそれらの変化に、出来るだけ忠実に再現出来る素材が鏡だったのです。
残念ながら作品に使用した鏡を含め、現在の一般的に使用されている鏡は
左右反対に映ってしまいますので、
完璧にコンセプトを反映した作品にはなれませんでした。
ただ、その作品(鏡)は、観る相手、展示される場所、時間に対して
出来るだけ対応しようとするもので、
これ以上の無い真実に近づこうとした結果です。
結果----
発表した設定は、10人程度の彫刻家や画家、陶芸家など
若い芸術家からなるグループ展。
知人の誘いをきっかけに、既にコンセプトがまとまっていた私は、
業者に発注をし、一度も私の手を汚す事無く、数日後には作品が完成しました。
展示会中のある日、遠くから、私の作品と入場者を暫く眺めましたら
直ぐに頭の中で反省会が始まりました。
私の作品の前には、誰一人、立ち止まり観て下さる方がいなかったのです。
理由は幾つか挙げられ、簡単に要約すると、
人は真実を知ろうとしないという事
作品に造形的な魅力が少々欠けていた事、でしょうか。
20世紀の古い芸術になりますが、
マルセル・ジュシャンの「泉」(どこにでもある小便器にタイトルを付け
サインを記し、1917年、芸術作品として発表した)のように、
どこにでもある素材を使用した私の「鏡」の中にも
サインを入れて、少しでも作者の温もりを入れても良かったでしょうし、
更に、多少、制作に汗をかいても良かった。
しかし、作品コンセプトの「芸術(表現)上の真実」の答えは、
矛盾してはいないと感じますから、
真実というどこにでも内在している性格を、
造形的な楽しさでもう少しオブラートで包み、
まずは観る側に興味を抱かせることも必要だったかもしれません。
その後も、芸術上の表現方法や、人間の未来の価値観に対しての
未発表作品含めて2作品制作しましたが、最後の作品で
現在のワックス素材に巡り会いました。
また、いつかこの未発表作品の事を綴りたいと思います。
コメント
コメントを投稿